芸術公社設立記念シンポジウム(2015年1月23日開催)

 ありがとうございます。次に芸術公社の英語名Arts Commons Tokyoについて、publicやsocietyではなく、なぜ「commons」という言葉なのか、アンドリューズ・ウィリアムさんにうかがいます。

ウィリアム・アンドリューズ 私は生まれがイギリスで、2004年から日本に滞在して、翻訳、編集、コピーライティング、執筆などをしています。

広く捉えると「commons」には、土地もインターネットも、みんなで共有する資源という意味があります。最近はクリエイティブ・コモンズという組織がかなり有名になりました。英語圏でも「コモンズ」ということばを聞くと、すごく広いイメージがあります。でも、コモンズとはもともとすごくローカルなもので、コミュニティという概念に関連しているようです。昔実際にコミュニティにコマンズという現象がありました。中世にさかのぼると、貴族が自分の土地の一部を普通の人(commoner)に分けて農業などで使わせる場所として、コモン・ランドがありました。今でもイギリスの多くの田舎の町や村には、その名残でコモンと呼ばれる、みんなのための場所が残っています。

「commons」は、みんなのための「公」なのです。芸術公社は共同性としての芸術に関心を寄せているので、組織名としてArts Commons Tokyoがいいと考えました。


 蛸壺化してしまっている芸術どうしを繋げる

 続いて、芸術公社の理事である大舘奈津子さんに、芸術の社会性、批評性、歴史性についてうかがえればと思います。

大舘奈津子 私は現代美術の現場で、ART iTの編集のほか、主にアーティストのレップとして、彼らの展覧会や出版物を作る仕事をしています。去年は、森村泰昌さんとともに横浜トリエンナーレに携わり、いまの日本の社会のなかで芸術が果たすべき役割について問題提起をしました。その問題は芸術公社でも共有できると思っています。

横浜トリエンナーレのなかで、その例をひとつだけあげるとするならば、「大谷芳久コレクション」です。これは戦時中に発行された、文学者による戦争礼賛の文章が掲載された本のコレクションですが、戦後、その文章の多くが彼らの全集には収録されていません。ただし、芸術家による当時の戦争礼賛を非難するのが目的ではなく、芸術がそうした役割を負う潜在的可能性を含んでいることを知らしめたかった。芸術にはそういう定めがある一方で、予言的な力もあります。チャップリンの「独裁者」は、戦後ではなく1940年に作られています。世の中の不穏な空気を察した芸術家が作り上げるものが社会を反映することがある。危うい方向に向かっている今こそ、芸術活動の自由を担保するために働きたいと思っています。

 次は、編集者の影山裕樹さんです。芸術の様々な分野どうしの「術」をつなぎ、編集していく可能性を考えていらっしゃいます。

影山裕樹 私は普段、アート、映画、サブカルチャーなどの書籍を企画・編集しています。編集のミッションとは、著者やクライアントが伝えたいメッセージをどのように社会に伝えていくかです。そのため、そのメッセージを効果的に伝達できる出版社とコラボレーションをし、その本がどのように流通していくかまで考えて仕事をしています。

ここにいる芸術公社のメンバーは専門家とご紹介いただいていますが、私は様々なジャンルの本を編集しているので、特定のジャンルの専門家であるとは考えていません。ある種のアマチュアであるがゆえに、専門家の人たちのメッセージをより読者に近い立場に変換できるのです。

今の日本の芸術に関する言論の状況を見ていますと、ジャンルごとに非常に蛸壺化しています。美術に関心がある人は美術のメディアしか読まない、映画に関心がある人は映画のメディアしか読まないというように、言説が縦割りになってしまっている。芸術公社ではこうした時代状況を鑑みたうえで、芸術と社会を繋ぐ新たな言説を発信する出版事業を展開したいと考えています。とくに、固有のジャンルにおける作品批評では見落とされがちな芸術表現のスキル/ディシプリンを捉え、他ジャンルに転用可能な言説を紡いでいく方法を探っていきたいです。

 ありがとうございます。次にご紹介するのは、多様な演劇の編集に携わる鈴木理映子さんです。

鈴木理映子 私は、以前は演劇情報誌の編集を、近年ではフェスティバル/トーキョー(以下、F/T)をはじめとする舞台芸術、関連イベントのアーカイヴ、ドキュメンテーションにかかわる仕事をしています。

何かの出来事を記述し残していく作業では、多くの場合は「分かりやすさ」が要求されます。私自身、「分かりやすく」「読みやすく」ということにはかなり気をつかうのですが、一方で、そうした編集・整理の作業こそが、作品自体が持つ、さまざまなノイズ、多様な解釈の可能性を切り落としてしまうのではないかと悩んできたところもあります。そこで考えなければならないのは、まず、「分かりやすい解答とはひとつなのか」ということだと思います。このごろの演劇では、ある社会的な課題に対して多様な読み方を示し、促すような作品もよく見かけます。ただ、複数の視点がそこにあるのだとしても、単にそれを並列するだけでよいのか、ということも考えていかなければならないと思います。

また、私はこれまで、商業的に主流とされている演劇作品と、先鋭的な演劇作品の両方に携わってきました。そこで課題だと感じているのは、両者の「溝」に対してどう取り組むかです。先ほどもジャンルの蛸壺化という指摘が影山さんからありましたが、舞台芸術に関心のある人のなかでさえ、さらにジャンルは固定化され、語る人同士に共通言語がないのです。ですから芸術公社では、美術や演劇といったものの外側にいる人たちを説得するだけではなく、そうした内側にある「溝」を正面から見据えていくことも重要だと感じています。


 言葉を尽くし、言論の場を作っていく

 外部とつながるだけでなく、内部にある亀裂とどう向き合うかはとても重要な課題だと思います。次にお話いただくのは、パフォーミングアーツを専門とするジャーナリストの岩城京子さんです。

岩城京子 私自身は「批評家」と名乗ったことはありません。ただ批評性を獲得する訓練は積んできたつもりです。これまで14年ほど、国内外のメディアで様々な演劇・ダンス関係の方々に取材をしてきました。例えば、ある日は歌舞伎の看板俳優を取材し、その翌日はフランスから来た振付家を取材し、その翌日は日本の小劇場作家の取材をする。これは日々、改宗して神様が変わるような体験です。私は、アーティストとはある種の「絶対性」を培って言葉を発するべき存在だと思っていますが、逆に、批評性が職業に求められる人間は「絶対的な相対性」を会得すべきだと思っています。おそらくはそのような複眼性を獲得する作業の延長として、私は日本語と英語でものを書いているのだと思います。

社会性を持つ言葉とは、求心力で個人を引き付ける言葉と、遠心力で社会に発信していく言葉の間でぎりぎりのバランスを保っている言語です。それこそ私は批評性を獲得した、社会に存立していくことができる言葉だと考えています。そしてこれは、いろいろな思想、価値観、審美性、を持つアーティストと話したり、複数の国で暮らし他者の文化や言語を、学び、獲得していくなかで、身体を通して培ってきた批評性だと自負しています。

芸術公社では、アジアのなかでの文化の異差と普遍性をやはりまず学び、踏まえたうえで、共有できる批評言語を模索し、新しいアジアの言論プラットフォームを作っていきたいと考えています。