【鼎談】今日の表現を巡ってー藤井光×田中功起×高山明 (2015年3月開催)
- 作品プロデュース
- シンポジウム
2015年3月8日、東京都庭園美術館から依頼を受け芸術公社がプロデュースを手掛けた演劇/映画作品「饗宴のあと アフター・ザ・シンポジウム」のアーティスト・トークが開催された。構成・テキストを手掛けた藤井光に加え、美術、演劇それぞれの文脈で活躍するアーティスト田中功起、高山明両氏を迎え、今日の表現を巡る本質的な議論が展開された。
消えた2万字を巡る物語
司会・相馬千秋(以下、相馬) まずは単刀直入に、「饗宴のあと」を体験して何を受け取ったのか、お伺いするところから始めたいと思います。
田中功起(以下、田中) ちょうど「PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭」(2015年)での僕のプロジェクトが、その発表が行われる京都市美術館の歴史にまつわるものだったので、どんな風に藤井さんが庭園美術館にアプローチするのか、同じような構造をもつプロジェクトだと思ったので、興味深く見ました。一番気になったのは最後のベランダと小客室で、観客についての問いが出てきます。「観客を愚鈍化するおつもりですか?」という台詞が聞こえてきます。観客を巡る物語としては映画「ASAHIZA」とも通じるものがあるはずなので、この台詞に込められた観客の問題をもっと伺いたいと思いました。
高山明(以下、高山) 最後の部屋で「この人を裏切るのですか」という台詞が出てきて一瞬ドキッとするのですが、これはつまり自分のことかと。お客さんを「この人」と呼び、「この人」は「それ」について問われるわけですが、「それ」が具体的に何のことかは分からない。結局、自分に問いが託されたままでこのパフォーマンスは終わるわけです。内容的にはとても難解で一回で消化するのは難しかったのですが、託された問いについて知りたくなり、家に帰っていろいろ調べてみました。なるほど、この作品で描いている、あるいは、描くことのできなかった「それ」はこうした出来事なのかと。ようやく日常の中でこの作品の体験が着地したのを感じると同時に、自分の見たもの、聞いたものを長いこと想起しながら考えることが出来ました。
藤井光(以下、藤井) お二人の感想を楽しみにしていましたが、最初から踏み込んできましたね(笑)。お二人から出た観客を巡る問いに答える前に、どのようにこの作品の形式が生成されたかをお話させて下さい。この作品ではアプリからの音声を聞くという形式を採用していますが、それ自体は新しいものでもなんでもありません。ただこの庭園美術館という場所でやるにあたっては必然的な形式に感じられました。というのも、普段映像をとっている身からすると、この美術館の中で視覚的な情報は過剰にある。館内を歩けば、建物の装飾があり、美術品が並べられた企画展も行われている。そのような観客の目の前に広がる視覚的な世界を映像でいうところの「イメージ」として捉え、そこに音声を重ねていくという形式にするというのはごく自然なことに思われ、すんなり決まりました。
そしてこの建物にまつわる歴史と記憶をフルに使おうということで、リサーチを展開しました。では、この作品の観客論というのはどこから出てきたのか? 観客を問うているのか、この美術館という美の制度を問うているのか、自分にもまだ未分化なところがありますが、なぜそこに行き着いたのかを話す必要があります。
この美術館はかつて皇族の邸宅で、朝香宮鳩彦王という人物とその家族が住んでいました。鳩彦王は、Wikipediaにも書いてあるように、いわゆる南京大虐殺が起きたとされる南京攻略戦に居合わせた軍のトップの人物だった。その事実に関する資料は国立国会図書館などにも所蔵されていて、僕は、この建物の中でIPS(国際検察局)が鳩彦王に行った尋問の調書を入手し全文を翻訳しました。またこの建物は戦後、当時の吉田茂総理大臣兼外務大臣の公邸となり、日米安全保障条約を締結するための準備作業がここで極秘に行われていました。その資料には、政治家や軍人たちが再軍備をめぐり討議した詳細な議事録が残っています。それらは長いあいだ機密文書でしたが、2000年代以降、この国の第一級の歴史資料として外務省が情報を公開します。
僕はこうした歴史資料を使って作品を構成し、さらに映画監督の深田晃司さんがそれを2万6000字に及ぶシナリオにしました。しかしそれをそのまま上演することは出来なかった。その理由は様々ありますが、自分に圧力がかかったということもあり、深田さんのシナリオを6000字まで圧縮せざるを得なくなった。つまり消えた2万字がある。よって作品は、この消えた2万字を巡るものになった。それが観客を巡る問いなのか、美術館という制度を巡る問いなのかは何とも言えませんが、消えた2万字を巡るものとして生まれたことは素直に言っておきたいです。
美術館という制度の中で
相馬 芸術が歴史を扱う際に、ある政治的立場からは扱って欲しくない歴史に触れてしまうということは良くあることですが、その時、それを扱わないのか、いや扱うとしたらどういうアプローチがあり得るのか、ということは今日この場で議論を深めたいと思います。
少し藤井さんの話に補足しますが、藤井さんのリサーチ能力は凄まじく、研究者でもなかなか見つけられないような膨大な資料をあたりそれを読み込んでいました。ただそれをそのまま作品にするのではなく、それらをフィクショナルなものに変換する作業を深田さんに託した。深田さんはそこから大文字の歴史だけではなく、そこに暮らしていた皇族の方々や、その後のプリンスホテルだった時代まで含め、個人の物語としてのフィクション化を図ったわけです。結果2万6千字のシナリオができ、それをそのまま上演するかどいうかは創作のプロセスの中でまだ決まっていませんでしたが、そもそもそうした歴史を扱うこと自体について美術館の内部から意見があったことは確かです。
私としてもいろいろと思うことはありましたが、藤井さんに、深田さんのテキストをラジカルに抽象化して、別の次元の作品へと昇華できないかとお願いしました。その議論は非常にタフなもので、一時は藤井さんが「俺はもう下りる」というところまでいき、私も「もう終わったな」と思う瞬間もありましたが(笑)、なんとか今日皆さんにご覧頂いたような形の作品にはすることが出来ました。 この問題は、今日の日本という社会の中、あるいは美術館という制度の中で歴史を扱う際に、誰もが多かれ少なかれぶち当たることで、我々は今回このような形で経験したんだなという風に思います。
高山 僕は戦後62年目にあたる2007年、「サンシャイン62」という作品を作りました。今、サンシャイン60が立っている場所にはかつて巣鴨プリズンがあって、そこではA級、B級、C級の戦犯60名が処刑されている。60人が処刑された場所に60階だてのビル、これは処刑された戦犯達の記念碑なんじゃないのかと思えてきて、そう思うとビルの形もなんだかお墓のように見えてくる。処刑が行われた場所には「永久平和を願って」と刻まれた記念碑があるのですが、日本で始めてPTAをつくり、母親運動を率いた山家和子さんという社会活動家は、その碑を設置した豊島区を訴えている。区の税金を使って戦犯のモニュメントを造るのは違法だということで、最終的に最高裁までいって敗訴しています。
僕の作品では、実際にサンシャイン60が窓の外に見える場所、喫茶店や小学校の跡地など、14か所をお客さんに巡ってもらいます。そこでお客さんに、裁判記録や初代巣鴨プリズン所長の手記が朗読されるのを聞いてもらったり、サンシャイン60についてのインタビューに耳を傾けてもらったりする。これが僕の作品のなかで最も直接的に歴史を扱ったものでしたが、その後、怖い人に追いかけられて脅されたり(笑)、妙なことが起こって参りました。それでインターネットカフェを逃げ回っていて、その経験から「個室都市東京」という作品をやらねばと思ったのですが(笑)。
田中 ぼくも少し京都でのプロジェクトを補足します。きっと三者の違いもそこに見えてくると思いますので。
「PARASOPHIA」の会場となっている京都市美術館は1933年に建てられた歴史のある美術館です。でもぼくの興味を引いたことはなく、一度も行ったことがありませんでした。東京で言えば国立新美術館のように新聞社主催の巡回展を行ったり、公募団体の展覧会を行ったりする、言わば貸し会場のような美術館で、自主企画もかなり少ない。帝冠様式による建物も古めかしく、初見では出来れば参加したくないなあと思っていたのですが(笑)、キュレーターからここが戦後GHQに接収されていて、大陳列室にはバスケットゴールが貼られ、地元の高校生らともプレイをしていたという話を聞きました。他にもこの地域一帯は接収されていて、裏手にある動物園を半分潰してテニスコートにしていたそうです。ミロのビーナスが巡回した話なども聞いたのですが、1970年には、美術批評家の中原佑介さんが企画した第10回日本国際美術展「人間と物質」という、戦後美術史上、とても重要な展覧会が巡回したということを知りました。占領軍がバスケットボールをしていた大陳列室では、ベルリンの国会議事堂を布で梱包したプロジェクトなどで有名なクリストが(当時は若者だったわけですが)、床に布一面に広げたインスタレーションを展示した、ということも分かりました。
この二つのことがどうしても気になったのですね。美術史と日本の近代史がぶつかりあう場所として、この大陳列室/京都市美術館を考えることができる、そう思ったのです。そこで京都・奈良の高校生達を参加者とし、5つのワークショップを行いました。中原佑介さんが当時書いた「人間と物質」のキュレーター・ステイトメントを朗読するワークショップを美術批評家の粟田大輔さんに考えてもらい、布を会場に広げ、社会学者の毛利嘉孝さんによる米軍基地の存在が日本のポップカルチャーにもたらした影響に関するレクチャーがあり、京都バスケットボール協会の西井功さんによるバスケットボールの基本的な動作を学ぶワークショップをした。最後に役者の西山真来さんに戦争をめぐるディスカッションをコーディネートしてもらった。そういった一連のワークショップを2日間に渡り地元の高校生と行いました。それらを藤井さんたちに撮影してもらい、映像作品として展示空間に再構成した訳です。
先程の観客についての話に少し繋げますが、この作品は展示室の中でお客さんが自由な順番で、好きな時間だけ観ることができますが、実際に全部観ようとしたら2時間ぐらいかかります。ちなみに1階に展示されていたスタン・ダグラスの映像は全部見ると6時間かかる。美術館の開館時間は8時間なので、スタン・ダグラスを6時間見終えた瞬間に僕の部屋に瞬間移動しなければこの二つの作品だけでもすべてを見ることはできない。というかそもそもこの「PARASOPHIA」という展覧会は全部の作品を観客が見ることは出来ないようにあえて構成されているように思いました。これは観客は不安にします。「私たちはこの展覧会を見たけれども、ほんとうにこの展覧会を見たのだろうか、見ていないのではないか」と。しかし、全部を仮に観られたからといって、果たして何を全部観たといえるのでしょうか。これは藤井さんの「消えた2万字」にも関係しますが、このような状態、つまり何かが削り取られてしまった状態、すべてを観ることができない状態、この不安な状態によって観客はむしろ考え、観客の愚鈍化から遠ざかるのではないでしょうか。
藤井 僕はこれまで実社会に直接的に関与する中で制作をしてきましたので、公に出せる表現と出せないものの線引きに関しては日常的に考えてきた課題です。今この状況だったらこれは公開できる、これは公開できない、というような駆け引きなり交渉が常にある。ですから作品には常に消された余白が当たり前のようにあるものとして考えています。
ただ、今回の「消えた2万字」に関しては、作品そのものを根底から崩しかねない性質のものだったので、一時はやめてしまおうと思い、相馬さんとも別れ話をする男女のような感じでしたが(笑)、最終的に背中を押してもらったこともあり、そこから観客を巡る物語として起こしていくという方向にシフトしました。 強調しておきたいのは、その「消す/消さない」の線引きのラインが、僕が想定していたものと違ったということです。僕がここまで行けると思っていたラインから、圧倒的に後退せざるを得ない状況があった。その強烈な違和感があったからこそ、今日の観客の置かれた状況とは何なのか、という観客を問う方向に思考が流れていったのだと思います。この、自分の想定よりずっと手前で引かれてしまった線は、もしかしたら観客を愚鈍化する線なのではないか。そのことを問いかける物語を再構成しなければならなくなった訳です。
高山 僕も観賞後に気になって消されてしまったであろう部分を調べたりしたので、観客に調べさせるようなものをつくったという時点でOKという気がします。例えばイランのような国では検閲がとても厳しいそうですが、逆に世界的に見ても優れた劇作家が出てきている。皮肉にも検閲があるから鍛えられるという面もあるのではないかと思います。検閲をする側にもアーティストがいて、ここをこう変えれば検閲が通るよ、と言ってくれたりする、一種の共同作業が成立しているらしい。もちろん検閲がいいとは絶対に言えませんが、表現をするときにある制約を引き受けることは、別のステップにいけるチャンスになり得るのだと思います。それを観客にどう委ねるかで、アーティストの手つきやタイプは分かれるのではないかなと。
相馬 表現の自由が100%保障された時代や地域は存在しない。でも私たちは21世紀の日本という中で、それが保障されているという刷り込みの中に生きてきて、しかしやはり自由ではないのだということを実感せざるを得ないようなことが、ここ数年でとても増えたように感じます。
歴史を扱うということ
田中 もう一つの問いとして、どうして歴史を扱うのか、ということについて考えたいと思います。
歴史をなぜ参照するのか、なぜ当時あったことやものを再演したり再現したりするのか、ということについて最近ずっと考えているのですが、先日たまたま訪れた図書館で「震災後、演劇は可能か?」というようなテーマの本が並んでいました。手に取ってみると、この本で語られる震災は、2011年の東日本大震災ではなく、1995年の阪神淡路大震災のことで、しかもその本を書いた人たちは関東大震災の後に誕生した演劇の新しい歴史(築地小劇場の設立)を参照していました(『阪神大震災は演劇を変えるか』晩成書房、1996年)。
僕がなぜ美術史に惹かれるかというと、かつてあった作品は、かならず特定の文脈あるいは状況・環境に対するアプローチとして作られていて、その意味では現在とは距離があります。しかし距離があるからこそ、それらのアプローチは別の離れた問題にも接続できる、現在でも有効な方法論であるとも考えられます。歴史の中にはそうしたレシピが沢山ある。自分が歴史を参照するときはこのような見方をしていて、美術史が単線的なものとしてあって自分はその末端にいる、という捉え方ではなく、歴史とはその時代に対応した方法論を集めたレシピ集であり、その特定の文脈を離れても使える方法論ならばそれを現在に呼び覚ましてみることも有効なんじゃないかと。
例えば「人間と物質」が行われた1960年代後半は学生運動が盛んで、その影響下にあった当時20代から30代だったアーティスト達が美術館の内・外である種の反乱を起こす。現在の美術の始まりになっている。海外で言えば、中原佑介さんが当時見た、ハロルド・ゼーマンの「態度が形になるとき」(1969年)が発端です。アーティストはそのときからひとつのエージェントとして状況に介入し、サイト・スペシフィックな行為を行うようになった。 僕にとって歴史を参照するとはそういうことなんですが、お二人にとってはどうなんでしょうか。
高山 関東大震災の後に起った演劇運動というのは、築地小劇場ですね。土方与志は震災の知らせを受けてパリから帰国し、自分でお金をだして震災の翌年に築地小劇場を設立する。これは当時の新劇運動ですが、日本の演劇史の中でも最も重要な演劇運動の一つは、震災への応答として生まれたわけです。
調べていくと、築地小劇場の大きさは東京芸術劇場の地下のホワイエとほぼ同じということが分かり、そこで「東京へテロトピア」の一訪問地として、「私たちの革命の震源たりえた場所で」というテキストを、作家の小野正嗣さんに書いてもらい、自分で朗読をしました。朗読は苦手なのですが、これは自分が読まなければならないテキストだなと感じたんです。東京芸術劇場の設立には築地小劇場関係者も関わったと聞いていますが、今は全く違う路線でやられていると思います。それを批判しても仕方ないので、築地小劇場運動という歴史に具体的な作品で応答しようと、「東京ヘテロトピア」を作りました。
ただ美術に比べて演劇は、歴史への参照自体が弱いし、参照しようとしても実際の作品が残っていないことがほとんどです。書かれた戯曲を参照するということはありますが、築地小劇場自体はもう存在せず、跡地に行ってもプレート一枚があるだけです。
藤井 築地小劇場が出来た前年の1923年に、映画『ASAHIZA』の舞台となった劇場がオープンしています。福島県南相馬にあるその劇場はまだ現存していて、震災前と震災後という断絶を乗り越えるだけでなく、日本の近代化を問い直す機会を与えてくれました。暮らすことそのものが倫理的に問われる場所が、突如として広大な面積生まれてしまった時、その地域が成り立っていった歴史に立ち戻るというのは自分の中でごく自然に生まれてきたことでした。
そのアプローチは庭園美術館の作品でも引き継がれ、建物を一種の「記憶の器」と捉えることにした訳ですが、過去の記憶を呼び起こすことは、この場所の社会的な意味と価値を見つめ直すことになるだけでなく、現在を理解しようとする作業そのものです。集団的自衛権や憲法の問題など、アクチュアルな問題を僕なりに考察するための手続きとも言えます。田中さんも、パラソフィアの作品でのステートメントで、かなりはっきりと現在の政治的な状況に応答する趣旨のことを書いていますね。
田中 過去を扱うことが現在の問題に繋がるという方法を、ぼくは国立近代美術館の蔵屋美香さんから学びました。彼女はキュレーターであると同時に美術史家でもあるわけですが、ヴェネチア・ビエンナーレ日本館で一緒に仕事をしたときも、彼女はかなり長いスパンでものごとをとらえようとしていました。蔵屋美香さんが美術館の所蔵作品を構成して「何かがおこってる:1907-1945の軌跡」(2013年10月22日から2014年1月13日)という企画を行いました。所蔵作品展なので出ている作品は以前に見た常設展と同じなのですが、キャプションや年表の中で、第二次世界大戦に至る日本の近代史と芸術の関係史を示すことで、現在の日本の状況を歴史的にパラレルなものとして読解可能するためのヒントを提示していました。つまり現在を「戦前」として読み解く批評的な視点をこの所蔵作品展は提供していました。これは非常に政治的な展示である、けれども、いままでの常設展とは視覚的にはそれほど変化はない。その中でぼくたち観客は歴史について考えながらいつの間にか現在の日本を考えている。
京都市美術館の歴史を聞かされたとき、現在の問題を考えるために、その美術館の歴史がヒントになると思ったのです。「人間と物質」のテキストはかなり抽象化されたものだし、現在の美術のはじまりに位置づけられる時代のものです。だからそれは容易に、現在の状況にも繋がり、読み替えうる。また、当時美術館を接収していた米軍の部隊は、その後沖縄に移り、多少編成などを変えつつも2012年まで沖縄にいた。京都をめぐる話が、沖縄に接続されるわけです。昔の話をしていたつもりが、いつの間にか今の話へと繋がっていく。
観客のリテラシーを信じるか
相馬 これまでの議論を少し整理すると、いわゆる社会や世界で起る出来事という意味での大文字の歴史と、美術史や演劇史といったジャンルごとに参照される歴史の二つについて言及してきました。前者の歴史だけとってみても、その歴史自体を知らない観客というのは沢山いる、というか、今日ではマジョリティかも知れません。「饗宴のあと」の観客にしても、この場所の歴史性を全く知らない人を想定して作品を作らなければならない。田中さんの作品でも、解説やステートメントを読めば背景は分かる部分もありますが、そもそもその観客の中に近代史に関する軸がない場合は、情報としても入って来ないということが考えられます。受け取る側の歴史観、あるいは歴史観のなさを前提とした場合、どうやって我々が歴史を通じて表現したことを観客に共有してもらうのか、その方法を一つ一つの作品の中で発明していかねばならないのだと思います。
自分自身作品のプロデュースを手掛ける中で、歴史を扱う作品を作りたいけれども、一歩間違うと「説教臭い」というか、歴史の教科書の記述を作品に言われてしまうような印象を観客に与えかねないという危険性もある。歴史を扱う作品を、全く歴史観のない観客に受け取ってもらい、その経験をシェアしてもらうための方法も含めて提示していく必要がある。その方法についてはどうお考えでしょうか。
藤井 確かにハイコンテクストを共有しないとアクセスできないという作品は多々あり、自分もそういうものを作りがちなのですが、常に問われるのは、作品の造形性と形式だと思います。それがこの問題を乗り越えていく唯一の接続点、帰着点であり、インターフェースであると思います。そこに対する想像力をしっかり考えないと、確かに説教臭くなってしまう。田中さんの作品においてもその造形性に拘る部分が面白いわけです。戦争について扱うにしても、ワークショップを通じて議論するという形をとっている。我々観客はその議論の内容を聞いているのか、あるいはその設定された状況を含めて見ているのかといえば、おそらく後者でしょう。
田中 僕はかつてとても希有な経験をして以来、観客というものを100%信じているんです。僕がまだ予備校生だった頃、水戸芸術館である展覧会を観に行きました。実家からわりと近いので、よく母親に運転してもらい一緒に行っていました。展覧会場に入るための入り口にビーズのカーテンがあり、それをくぐって中に入ると、大きな会場の床の上にたくさんの銀色の飴が長方形に置かれていて、うちの母親は何を思ったかそれをいきなり掴んだんです。僕は「えっ、ちょっと待って」となったんですが(笑)、監視員は「どうぞ」といって、むしろ飴を掴む行為は想定内だったわけです。その後僕たちはその飴をなめながら他のアーティストの作品群を鑑賞しました。後にそれがフェリックス・ゴンザレス=トレスの作品であると知る訳ですが、表面的なとっつきやすさの背景には、まさにハイコンテクストな問題が待っているわけです。例えば美術史上ではポスト・ミニマルアートの文脈を扱い、観客との関係性が焦点にある。一方で市場における所有の問題を扱い、個人的/社会的レベルではエイズの問題がある。つまり重層的なハイコンテクストが観客にアフォードされた行為の中に含まれている。いわばデュシャン以降の、二度目の現代美術の始まりに出くわすような体験なわけです。母親の反応を思い出しながら、僕は、大丈夫、観客はどこまでもついてくることができる、むしろぼくがそれについていかなければならない、とどこかで思っているんです。
問題なのは、むしろ、観客の環境です。観客には時間がない。美術館が24時間あいていて、無料で何度でも見ることができれば、そのような環境が整えば、僕たちは100パーセント観客を信じられるはずです。むしろ制度のほうの問題で、制度や環境が観客の自由を制限してしまっている。だから例えば僕の場合は、忙しい観客のために5分でもある程度把握できる圧縮バージョンと、もう少し時間のかけられる観客のための2〜3時間ぐらいかけて観る長尺バージョンを用意しています。
「PARASOPHIA」で展示されていた、アラン・セクーラの作品は、1999年シアトルで起ったWTOに対する抗議運動の記録写真でした(「催涙ガスを待ちながら」1999年〜2000年)。確かにこの写真はその背景を知らなければ全く何のことだか分からない。でも少し時間をかけてみていると、何かしらのデモの様子だというのが分かってくる。そこでは多くの人びとが警官隊ともめているけれど、その傍らでライブをやっていたり、亀や鬼の格好で歩いている人もいる。背景を分からなくても、そこに映り込んでいるものから想像できることは沢山ある。そこにはいわゆる社会運動が新しい局面を迎え、ある種の文化活動となった様がとらえられているわけです。全部で70枚くらいあったけれど、必ずしも全部見なくてもそこには何かが映し出されています。むしろ考えねばならないのはその作品が置かれている展覧会そのものや環境のほうで、観客は広い会場を歩き回って疲れるわけだし、場所によってはとても寒むかったりする。そういう局面を運営側がサポートすることで問題の多くは解決するようにも思うのです。
高山 美術の場合は、形式自体が歴史的なんじゃないですか?歴史的なことを踏まえていないと、ゴンザレス=トレスの作品も「ただ飴が置いてあるだけじゃないか」となってしまう。その形式に辿り着くまでのコンテキストや歴史を知らないとそもそも楽しめない。また極端なことを言ってしまえば、それを押さえていればマーケットの中で売れる、許可証をもらえるような作品が多いような気がします。
田中 そもそも美術館に並んでいる、あるいは国際展に出ている作品すべてがいいとは限らないですよね。その作品がダメだから分からない場合もある。人によっては、ゴンザレス=トレスの作品でさえ、評価しがたいかもしれない。美術史的素養がなければ分からない、といわれたとき、では美術史的素養がなくても分かるものを作ればいいのだろうか。ぼくはそれでは何か物足りなく感じてしまう。
芸術史の参照か、現在への応答か
藤井 僕の印象からすると、美術史は、ますます政治や経済活動の片隅に追いやられていく、とても小さな存在に映っています。美術史から供給されるエネルギーは弱まり、今、自分が作品をつくるとき、その輸血ラインは限りなく細くなってきています。むしろ地政的変化、経済的変化の支配下にある日常の現実を原動力とするラインが太くなってきています。そういう意味で高山さんの考え方に近いのですが、それは美術史自体が参照項として見えづらくなってきているからかも知れません。
田中 美術史を参照するという行為は、自らが美術史に参加したいという欲求でもあります。つまり自分は美術史のこの動向とこの作品を踏まえているから、この系列に入り、その領域を更新しようとしている、というような。美術史を参照する、という言い方がまずかったのかもしれないけれども、僕にはこのような、美術史に参加したいという欲求がありません。自分の実践を位置づけるために美術史があるわけではなくて、先ほども言ったように現在の問題を考えるための参考例として過去のレシピ集がある、というふうにとらえています。例えば特定の社会問題を素材となる野菜ととらえ、それを調理し理解するために美術史をソースとして活用する。とはいえ、今となっては美術史を参照すべきか、むしろ演劇史のコンテクストで考えたほうがいいのか分からなくなっている。僕にとってはラスコーの壁画から連なる美術史にはもうそんなに興味がないのです。
高山 僕は圧倒的に、現実や社会への応答として作品なりプロジェクトなりを作っています。そのために演劇史が参照できるなら積極的にそうしたい。しかし、例えば2002年にPortBというカンパニーをつくって最初にやった公演で、マース・カニングハムがジョン・ケージとニューヨークで行ったパフォーマンスの特殊な客席の形態をそのまま引用したのですが、観客も批評家も誰一人そのことに気付かなかった。日本でそれを指摘した人はいまだにゼロです。だからそんなことをやっても、だからどうした、ということにしかならない(笑)。それならむしろ目の前の現実に応答したほうがいいだろうと思い、途中から方針を変えたんです。
そのきっかけになったのは、ドイツの演出家・劇作家であるルネ・ポレッシュとの出会いです。彼が日本に滞在して、日本の俳優たちと作った舞台が非常に刺激的だった。どういう作り方をするかというと、稽古なんてしないというか、議論以外することなんてないじゃないかというスタンスで、俳優たちと延々議論をする。議論しながら、ポレッシュはパソコンに向かい、その議論を戯曲としてまとめていく。ポレッシュは俳優たちとの議論にひたすらつきあい、いったん自分の身体に入れて、それを戯曲マシーンのようにテキストにしていく。そして本番が迫ってきた段階で、じゃあ立って稽古するかとなって、上演作品を作ってしまう。俳優が台詞を覚えられなくても、彼の舞台では常にプロンプターが走り回っているので問題ない(笑)。それでも演劇は成り立つ訳です。その時に彼らが議論していたのは、ホリエモンや日本のバブルの問題だったということです。つまり現実に応答することによって、新しい形式を作ってしまう。そして結果的に演劇史をラジカルに批判し、更新するものになっていた。しかも舞台は、僕が作っていたものよりもよっぽど今の東京の現実に応答するものだったんです。自分がやるべきだったことをポレッシュがやってしまっている。これは猛省しなくてはならないと思いました。それからは現実に応答するということを通して、いかに演劇史を更新していけるか、ということを意識するようになった。
藤井 高山さんはそう言うけど、それなりの経験や演劇史のマトリックスが見えてないと、「ホリエモン」とか配置しない訳じゃないですか(笑)。そこに演劇史が全くないというのは、極端な話ですよ。歴史や記憶は身体化されるうるものだし、絶えず現在に再配置されていっています。ただ、ある時代に生成された歴史を現在に再配置することの面白さがあると同時に、難しさもあると思います。歴史は、現在に生きる私たちが勝手に解釈したり歪めたりできない部分がある。過去から引き継がれたものとして、それを「そっと置く」しかない、リスペクトとともに丁寧に再配置するしかない、ということがあると思います。僕はそうした形で歴史を扱う方法自体に可能性があると思っている。
高山 まあ本当のことを言えば、ポレッシュは僕が知る限り、ドイツの演劇界で最も演劇史に詳しいアーティストです(笑)。彼はハイナー・ミュラーについての博士論文まで書いている。「そっと置く」ということでいうと、藤井さんが青森のACACで制作された作品、僕は見れていないのですが、詳しい批評を読んで刺激をうけました。
藤井 実存した民族博物館の所蔵品数百点を使った大掛かりなインスタレーションですが、博物館の所蔵品をすべて「無名化」して、あらたな物語のもとに再配置しました。それについて、歴史系博物館の学芸員が批評を寄せてくれたのですが。その論点は、展示物から固有名を消すことは、ひとつひとつのモノに刻まれた固有のストーリーを消去することで、外部からの意味付けに対してヴァルネラブルな存在になってしまう、そのことを危惧されてのことです。真っ当な批判です。「そっと置く」という態度も手元が狂えばレビジョニストになってしまう。ですので、予防線をいくつか用意したのですが、ただ、歴史と対峙する芸術の固有の可能性は、矛盾するかもしれませんが、その危険性を侵犯することでもあったりする。
創作と場所の関係 – ツーリストを超えて
相馬 次に場所の問題についてお伺いしたいと思います。お三方は様々な場所で活動されていて、例えば田中さんはロサンゼルスに在住し、敢えて東京から離れた場所で制作をなさっている。一方、高山さんはフランクフルトの劇場のアソシエート・アーティストだけれども、創作場所は東京に拘っている、ということもあります。様々な都市を経験する中で、創作と場所の関係性をどのように考えているのか、またそうした外での経験によって間接的に日本、東京をどのように捉えていらっしゃるのでしょうか。
田中 今、実は困難なところにいると感じています。とくにここでは海外での制作・発表を念頭に置いていますが、ヴェネチア・ビエンナーレ以前は、どちらかというと既にある作品を展示したいというオファーに応える形が多かった。以後はキュレーターとディスカッションをしながら共にプロジェクトを作り上げて行くようなオファーが増えたんです。日々、スカイプと電話とメールで忙殺されます。また移動が増える。でもいつもいつも現場に足を運ぶことはできないし、毎回新しいプロジェクトというわけにもいかない。しかし、例えばベルリンで発表するものをロサンゼルスで作るのか、ということについて考えてしまう。もちろん京都のプロジェクトはベルリンでも見せるし、日本や中国、アメリカで作ってものをヴェネチアでは見せたわけだけど。同時に、自分がエージェントとしてそれぞれの場所に行って、その地域の問題を拾い上げたとしても、僕にできるのはツーリストとしての視点ですよね。実際「PARASOPHIA」にも、ツーリストとしての視点によるプロジェクトがあったし、もちろんそれも良し悪しだとうけど。何度かリサーチで訪れたとしても、そのサイトに対応した「大喜利」になってはしょうがない。そこに僕自身の中での継続した興味や視点を保つためにはどうしたらいいのか。
まだこの状況ははじまったばかりですが、対策として、三ヶ月程度の短いタイミングでのオファーは、今、基本的にどんどん断っています。あるいは未来に投げるようにして、1年後や2年後だったら可能性があるというふうに相手に伝えます。「PARASOPHIA」のときのようにテーマが先に見つかればまた違いますが。今、興味があるのは歴史の問題です。アジアの近現代史全般に興味があります。そこに現在を考えるヒントが転がっているからです。例えばカリフォルニアにおける日系移民について調べる中で、戦中の日本人・日系人を対象としたアメリカにあった強制収容所に行き着きました。国籍ではアメリカ人であった日系人が、戦中は日本への戦争協力をするかもしれないということで強制退去させられ、収容所に集められます。自国の中の移民への問題、移住・移動の問題は、高山さんのいくつかのプロジェクトでも扱われている大きなテーマです。
高山 僕も現地に行って新作を作るというパターンが多く、「大喜利」の問題は他人事ではありません。確かにツーリスト的な作品になってしまう。しかし僕はツーリスト的な在り方にこそ興味があります。先程例に出したルネ・ポレッシュが東京で作品を作った時、なぜ自分が向きあうべき東京に彼が向き合い、自分よりもいい結果を出しているのか、ということが痛かった。それで、東京に向き合うことを半ば義務と捉え、次の作品では半年くらいかけて高島平をリサーチし、高島平団地の住人を招いて舞台をつくる、そういう創作の方法に変えていきました。その過程で気づいたのは僕の視点は明らかにツーリストの視点だったということ。その後5年間は東京から出ず、東京でだけ作品を発表し続けた。その時の問題意識としては、いかに東京という都市を旅するか、東京という街を方法とするならばどういう形があり得るか、ということでした。それで東京を旅する様々なツアー・パフォーマンスを作っていったわけですが、とにかくメイド・イン・トーキョーをという感じで、海外での仕事は、信頼関係を持てる相手とだけに制限しました。
フェスティバル/トーキョー(F/T)が始まってからはF/Tをベースに作品を作りましたが、F/Tの枠組で作品を作るのはなかなか大変だった。普通のフェスティバルや劇場で作るのに比べて3倍くらい時間や労力がかかる。それでも最高にいい機会だったので、都合7年くらい東京をベースに作品を作っていったわけです。
今はF/Tに参加しなくなったということもあり、「東京を旅する方法」を海外の別の都市で試す時期に来ています。例えばこの2週間だけでもフランクフルト、ミュンヘン、台北、台南に行きました。いろんな都市で活動を始めてみると、改めて東京を軸に活動してきて良かったなと思うし、また、アジアの都市の方が圧倒的に面白いと感じるようになりました。ミュンヘンなんかは自分にとっては退屈で、この都市で自分に出来ることなんてないと感じています。自分の創作にとって重要なのは、都市、街、そこで営まれている人々の生活、そして矛盾するようですが、都市生活に深くからんでくる移住や移動、それらが自分の創作のテーマであるとさえ言えます。確かに他の都市では、ツーリスト的なものしか作れない、けれども、東京でものを作っていても僕の視点はツーリスト的なものなのです。自分の背後には常に東京があって、別の都市で別の作品を作りながらも実は東京を旅し、東京と出会い直しつづけている、といった継続性もあると思っています。
藤井 僕はいろいろな場所で撮影しますが、それらの固有の場所を支える下部構造がどうしても意識されます。ややマルクス主義的なのですが、その場所の細部を詳細に観察することで見えてくる偏在的な風景を見極めたい。だから、「地域らしさ」を楽しむツーリズムとは指向性が違うというか、その土地の歴史を扱うとしても、地域性に回収されない領域が見えてくる。『饗宴のあと』で扱われる皇室の生活も日本固有のものというより、近代という時代に生きた他の新興国の王室のひとつとして捉えられています。
アジアにおける非対称性の問題
藤井 歴史を扱うことで自分の関心領域が海外へと膨張していますが、最近は、ASEAN諸国へ派遣されるアーティストが増えていますよね。下部構造を意識する僕としては、その背景にある日本政府のアジアにおける地政学的な文化戦略が見えてくるわけです。その国策に逆流するかたちになりますが、僕は東アジアでの制作を意識していて、台湾、韓国、中国との文化交流は数年前とは違う意味が生じていると思います。
田中 僕はまさにその国策にのって(笑)、国際交流基金に派遣されてミャンマーに現代美術の調査に行きました。現地の現代美術の状況を把握し、レポートを書き、今後どう国際交流基金がミャンマーに貢献できるのかを提案する役割でした。展覧会に参加するのとは違い、調査なので、一週間という短期でしたが、同行したART iTの編集者のアンドリュー・マークルと組んで、若手から1970年代に活躍した大物に至るまで、まるでNGOの職員のように次から次へとインタビューを行い、彼ら・彼女たちが考える現地での問題を聞き出し、そのためには何か必要かをアンドリューとディスカッションし、それを記録しました。コーディネーションも含めてアンドリューがとても細やかにスケジュールを組んでくれていたので、本当に多くのアーティストと話すことができました。
ひとつとても気がかりだったのは、ミャンマーのように、そのジャンルの言説や情報が少ない地域では(この場合は現代美術ですが)、情報を多く持つ1人の人間に力が集中し、影響力を持つ、ということです。例えば現代美術の本をたくさん持っているアーティストがいたとして、彼をとりまく人びとがある意味ではセクト化する。あるいは海外からの訪問者/滞在者の影響もとてもストレートです。既にドイツのゲーテ・インスティチュートやフランスのアンスティチュ・フランセが現地に入っているわけですが、そこでは展覧会やワークショップが開かれていました。アンスティチュ・フランセではひとりの有名な写真家がワークショップを取り仕切り、そこには賞制度もあるので、若者がそれを目指します。でも奇妙なことにそれがジャンル化しているのです。つまり批評的な視点はまったく養われていない。現地で質問すると「フォト・エッセイ」をやっていますというアーティストが結構いたのですが、「フォト・エッセイ」が何を示すかというと、Appleのアプリケーションを使ったスライドショーなのです。ドラッグなどの社会問題に取材し、ロック・ミュージックをBGMに、写真がスライドショー形式で流れていきます。テンプレートで作っているのか、スライドショーの写真のディゾルブのタイミングも、フォントも同じで。とても恐ろしくなりました。もし僕らが何か余計なことを言うと、知らない間に創造性を壊してしまうのではないかと(笑)。
当時ランシエールの『解放された観客』(梶田裕訳、法政大学出版局、2013年)を読んでいたということもあり、非対称な影響関係や学びの関係に敏感であったということもあります。最初は、少し啓蒙的に、こうのような作品を作るのならばこういうアーティストがいたし、こんな本を読んでおいたほうがいいよ、っていうようなアドバイスを無配慮にしていたのですが、そんなことをしたら5年後には僕らが想像もつかないような事態になりかねないと思ったのです。それで、現地のアーティスト達が自分たちで自発的に必要なことを提案できるプラットフォーム考えるべきだと思いました。聞いた中で一番多かった意見が、先の情報格差にも繋がりますが、現代美術に関する本の翻訳がほとんどないことです。どの本を翻訳するべきか、既にこれを訳した方がいいというような提案もあったので、彼ら・彼女たちが議論をして翻訳すべき本を決定し、アンソロジーのような形で複数冊作るのはどうだろうという提案を国際交流基金には行っています。現在もこの提案が検討中なのかはわかりません。現地の日本大使館もそうでしたが、むしろ日本人のアーティストに現地滞在をさせ、ミャンマーのアーティストを日本に呼び、人的な交流を通して教育したい、という意識があるのかもしれません。
相馬 フランスのアンスティチュ・フランセにせよドイツのゲーテ・インスチテュにしても、自国の文化と言語を海外に発信する、またアート未開の地でリサーチを行い、自国のアーティストと現地のシーンが出会う場をコーディネートする、ということは、パブリック・ディプロマシーと称して何十年も前から行われてきたことです。国際交流基金も同じようなミッションの組織ですから、日本のアーティストを海外に発信することは当然のことだと思いますが、その際に現地のアーティストが主体となる提案が採用されないというのは、少し違和感も感じますね。
高山 先日台北と台南でワークショップをやったのですが、自分が中心になって上から指示を出したり、設計図的なプランを提示したりする形はとれないなと感じました。自分は中国語を話せないのに彼らは日本語を理解できるとか、彼らの祖父母は普通に日本語を話せるとか、つまり日本が侵略したり統治したりしていた歴史的なコンテクストがあるわけで、それを無視するわけにはいかないなと。しかし自分は指導的な立場を期待されて招かれているわけだし、みんな仲良くを目指している訳でもありません。仲良しクラブでもなく、上からの設計でもなく、別の形のプラットフォームを作っていくにはどうすればいいか。今こそ「暴力」についてきちんと考える必要があると思っています。自分はブレヒトの影響を受けて、とりわけブレヒト「教育劇」の理念を批判的に継承したいと思って活動してきましたが、ブレヒトにおける「教育」はいわゆる教育や教化といったある種の暴力が半分、自分が学んだり気づいたりできる可能性が半分、つまり毒にもなれば薬にもなる両義性を孕んでいます。というか、だからこそブレヒトは「教育」に注目した。自分としては、ブレヒト教育劇をいかに更新できるかを考えながら、アジアの都市で新たなプラットフォームを創造していきたいと思っています。
藤井 非対称の関係はどこにでもあって「暴力」はその中で無自覚に行使されていきます。『饗宴のあと』に登場する人物のひとりが、「私たちはここで、自分たちの置かれた立場を意識し、自分たちの利害について議論する」、そのような芸術のための場所だといいます。この台詞は直ぐに別の人物によって否定されてしまいますが、その台詞はランシエールの『解放された観客』からの引用で、その語源をたどるとブレヒトの「教育劇」に行き着きます。観客の解釈することの権利を奪い、愚鈍化させる美の制度から、何らかの方法で身を引き剥がしていくことは、アジアにおける制作の課題として歴史的に結びついていくことなのかもしれません。
収録:2015年3月8日 東京都庭園美術館
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